真田幸村が真田丸を作った本当の理由とは?

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NHKの大河ドラマ「真田丸」が

予想を超えて面白いので

はまっているところです。

このドラマを見始まって改めて

真田幸村とはどういう人だったのかを

調べるようになりました。

以前はなんとなくしかわからなかったけど

調べてみると面白いですね。

歴史って年号や人の名前を覚えるんじゃなく

その人の行動や考え方を想像していくことで

どんどん興味が湧いてくるんだと

この歳になって気付きました。

さて、真田幸村の作った真田丸について

調べてみると、ざっくりですが

豊臣秀吉の作った大阪城は南の方が

防御が弱くて、攻められそうなので

やられないように真田丸を作ったと

言われているようだが

実は、大阪城の西の方が防御が弱かったようです。

そこで、西の方に行かないように

真田丸に敵を引きつけて

攻撃してもらおうという考えだったようです。

もし、真田丸がやられたとしても

その後ろに幅200メートルにも及ぶ谷があるので

大阪城は守られると思っていたようです。

そもそも、真田丸を作ることになったのは

1614年の大阪の陣があったからです。

徳川家康は政権を取ったのに

豊臣秀吉の息子の秀頼と仲が悪くなり

戦うことになったからです。

そこで、豊臣家に着くことになった

真田幸村なのです。

だって、奥さんを豊臣家にもらっているので

当然ですよね。

兄貴の真田信之は奥さんを徳川家から

もらっていて、徳川家にいるので

兄弟対決になってしまいます。

戦国時代はしょうがないですね。

辛いところです。

そして、真田丸に攻めていった

徳川軍ですが、強くて勝てませんでした。

この時、真田幸村は父の真田昌幸の

上田合戦での篭城作戦を実行して

勝利します。

真田昌幸は徳川軍を二度にわたって

上田合戦で苦しめます。

その行動を近くで見ていた

真田幸村は大坂冬の陣で篭城作戦を実行して

勝っちゃうんです。

そして、徳川軍は和睦をしようということで

条件として、大阪城のお堀を埋めることを

提示します。

外堀だけを埋める約束なのに

内堀まで全部埋めちまった徳川軍。

こうなると丸々攻められてしまう大阪城なので、

やばいっすよ。

とみんな思っていたでしょう。

丸裸の大阪城になったので

チャーンスと思った

徳川家康は1615年に

大阪夏の陣で豊臣軍を

攻めて勝ってしまいます。

真田幸村は徳川家康だけを

狙いに行って、あと一歩の

ところまで行きますが

最後は安井神社でちょっと

いっぷくしていたところを

西尾宗次にやりで刺されて死にます。

これで、徳川軍は安泰で

260年も徳川幕府が

続くことになります。

もし、真田幸村が徳川家康を

やっつけていれば、歴史が

変わっていましたね。

今の世界が良くなっているか

悪くなっているかは

誰にもわかりませんけどね。

歴史の人物の行動を

いろいろと調べていくと

本当に面白いですね。

諸説あって、人によっては

捉え方が違うのも

面白いですね。

答えがないので

想像でいろいろと

語り合っていくことが

楽しいです。

もっともっと、いろいろと

知りたくなってきました。

今は、便利な時代で

ググればどんどん出てくるし

ユーチューブでは動画が

ありすぎて、見るのが

大変なほどです。

でも、面白すぎて

どんどん見てしまいますね。

もう、くだらないテレビなんて

見てる暇はなくなりました。

それはいいことですよね。

skeeze / Pixabay

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